法学研究科委員長

堤林 剣

 法学研究科をご紹介するにあたって、まずは歴史を繙きながらお話をしたいと思います。
 慶應義塾における大学院の発足は、明治39(1906)年に遡ります。大学部が設置されてから16年後のことでしたが、それまで義塾は実社会、とくに実業界に出て活躍する人びとを数多く輩出してきました。
 しかし、当時の塾長の鎌田栄吉は、官立の学校、つまり国立の大学では育めない「自由研究の気風」を醸成することが大事であると考え、「終身学問に身を委ねる学者」の養成に乗り出します。その時の「大学院規則」には、大学院とは大学部卒業生がさらに「学術の蘊奥を極める」研究所であると謳われています。この「学問の独立」こそ、義塾の創立者である福澤諭吉が『学問のすゝめ』で述べた私学の精神に立ち返るものでした。

 そして大正12(1923)年の大学令による組織替えを経たのち、昭和26(1951)年に今日まで続く新制の大学院制度が発足したことを踏まえ、義塾は法学研究科修士課程を、その2年後には博士課程を開設しました。まさに日本がまだ占領下にある時期のことです。当初の法学研究科は民事法学専攻と政治学専攻の2つの部門から成り立っていましたが、昭和38年から公法学専攻がこれに加わり、現在の3専攻制が始まりました。なお、その後も時代の要請に応えるべく改革が行われ、公法学専攻内には宇宙法専修コース、政治学専攻内には公共政策専修コースとジャーナリズム専修コースが設置されています。
 法学研究科で学んだ人びとの多くは、その後、学界や法曹界をはじめ、政界、官界、経済界、メディア界、非営利組織等で大いに活躍しています。まさに「学術の蘊奥」を極めた人びとが、学界はもとより、社会の様々な部署や機関で高度な専門性を発揮する時代が到来しているのです。

 かつて日本はその近代化のために、西洋から様々な制度を輸入し、社会や国家の枠組みをつくってきました。歴史も文化も異なる国で構築された制度や学知を器用に取り入れることが、近代的な統治のシステムの構築に必要とされた時代でした。

 しかし、グローバリゼーションが著しく進展した現代社会においては、社会や国家といった集団の役割や機能が大きく変化してきています。ひとつの原理に従えばすべてがうまくゆく、といった前提が失われ、あらゆる場面で多元的で多様な価値や考え方のせめぎ合う複雑な問題状況が呈されています。そうした今日の世界で求められているのは、集団を組織し維持しつつ自らの存在を全うする、人間の本性に根差した根本的な"問いかけ"ではないでしょうか。

 このような変化と流動化の激しい時代に立ち向かうために、法学研究科では、法律学や政治学等のベースとなる個々の学問のディシプリンをしっかりと身に付ける指導を基本としつつ、日本や国際社会で生起しているアクチュアルな問題を、複数の担当教員が参加して討論し合いながら、現代のニーズを研究に反映させる指導をも積極的に行っています。

 また本研究科は世界中からの多くの留学生を迎えており、文化背景を異にする彼ら・彼女らの参加により、ひとつのディシプリンの学びが複眼的に、より豊かになっています。さらに社会人経験を生かした高度なリカレントな学びを可能にする専修コースも設けられており、法学研究科は、様々なバックグラウンドを持った人びとに開かれた場を提供しているのです。

 今日、研究者を目指す者にとって、大学で教鞭をとるという道は、少子化の進むなかでますます狭き門となってゆくと考えられています。しかしいつの世であっても、変動期にある社会においては、質の高い研究の需要が必然的に求められるのです。約120年前に慶應義塾に大学院が初めて開かれた時もそうであったように。そして前述した法学研究科のこれまでの歩みは、その需要に応えようとする義塾の試みが確かに実を結んできたことの証でもあります。

 かつてなく「自由研究の気風」の価値が高まっている今だからこそ、私たち法学研究科スタッフは、個性豊かで創造性に溢れたみなさんの新たな"問いかけ"に出逢うことを楽しみにしております。

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